いきなり重いタイトルだけど、スペインで「安楽死・自殺ほう助が合法化」というニュースを知って、ついバイト中考えてしまったので、言葉にしようと思う。
詳しい情報を持ち合わせていないので「合法化」について何かを言うつもりは毛頭ないけど、「遺すモノ~楢山節考より~」の上演もあったから、「死生観」へのアンテナがちょっとだけいつもより鋭敏になっているのかも。
私自身の個人的意見を言うなら、「安楽死」には賛成。
私は「有事の際には延命治療は一切拒否します」と両親には伝えてあるし、呼吸器や心肺装置が必要になってまで生きていたいとは思わない。
いっそのこと、早く生まれ変わりたいから、早めに旅立たせてほしいとすら思う。
でも、それを決断する側になるのは、想像するだけでも息が止まるくらい苦しい。
両親に何かあった時、どんなに両親に頼まれても、私は「延命治療は拒否します」と言えないだろう。
「遺すモノ」の中に
「この習わしがあるから、みんな余計に苦しまずに済むんだ。」
というセリフがある。
どこかで、「誰かの判断」のようなものに任せて、思考を手放しているような気もするが、自分では判断できない苦しい決断を後押ししてくれるものが必要な時もきっとある。
何かの線引きで「強制的な死」を与えるのはやはりどうかと思うが、自分の死に際に選べる選択肢が増えることはいいのではないか?と思う。
ただ、「死にたいときに死ねる」=「安楽死」であってはならないとも思う。
矛盾だけども、「精一杯生きれないから死ぬ」…つまり、どこまで行っても生きた先に死があってほしい。
「生きづらいから死ぬ」いわゆる自殺は、なんだかよくないような気がして…でも「延命治療の拒否」と何が違うのか、考えれば考えるほどわかんない。
今日は一日「安楽死」について考えてた三石でした。
Misaki
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