==高校演劇全国大会「みやぎ総文」の審査員を終えて思うこと。==
今回、SNSなどで審査や講評について、批判的意見が出ているようです。
これら批判を受け入れるのも審査員の仕事でしょう。
また、好き勝手に作品講評をしている以上、ひるがえって講評に対する批判も勿論受け入れるべきだと思います。
そのうえで、今回の審査に臨んだ自分の立場を明確にし、同時に少しでも説明責任を果たしたいと思い、主に全国大会に来ていた関係者に向け、文章を書きました。
(以下はあくまで、ぼく個人の考えであるのは、ご了承を。)
・「全国高等学校演劇大会とは?」
僕が審査担当したのは高校演劇の全国大会であり、コンクールです。
2000校からの12校の選抜であり、地区、県、ブロックと3度の上演を経ているのだから、どの作品も「良くない作品」などはないでしょう。
また、「テーマの軽重」はあれど、地区大会から一年以上も作品と付き合ってきているのですから、どの演劇部も思い入れがなかったり、努力の足りない作品などはないでしょう。
つまり「各校の精一杯」が舞台にのっていると考えたし、事実そうだったと思います。
とはいえ、作品を見ながら、様々なことを想像しました。
「この学校は、生徒主導なのか、顧問主導なのか?」
「テーマの切実さの違いに優劣をつけられるのか?」
「高校生が演じるリアリティとは?」
「各地域の学校ならではの特殊性」
「作品が訴える社会的意義」
「今、このテーマを扱うことの大事さ」
などなど。
本当にバラエティに溢れ、考えることの多い12校の上演でした。
が、結論、それらに配慮しだして審査をするときりがないと思いました。
そういう「舞台裏」に想像を働かせていくと「純粋に舞台上で起きている演劇パフォーマンス」ではないところに意識が向かい、客観的な作品評価ができなくなる。
本当に客観的に各作品を観ることができたかは、正直わからないです。
が、自分としては常にフラットでいるように最大限努力したつもりです。
そして、「全国高等学校演劇大会」というコンクールである以上、その中から最も素晴らしい演劇を審査するべきと考えたのが僕の立場です。
・「審査とは?」
では「審査する」とはどういうことなのか?
僕は、審査員としては「優劣をつけること」を最優先事項に考えました。
先に述べたように、「各校とも精一杯をやっているし、どれもよい作品」です。
となれば、結局は「審査をする」ということは、乱暴に言えば「相対的な優劣をつける」ことでしょう。
どこも素晴らしいでは、順位が付けられないのだから、当然です。
具体的には、より良くなるための「改善点を見つけること」が、結果的に「優劣をつけることになる」と考え、審査しました。
改善点が多い、もしくは改善点の演劇的欠陥が大きい、というところはマイナス評価の対象になり、一方、改善点もあるが、それを超える魅力もあるところは、プラス評価にしました。
・「審査する基準は?」
ただ、審査する場合、審査員はただ優劣をつけるだけではなく、「優劣の理由を説明する責任」があると思います。
そして、それを言語化するには、自分自身の演劇観を問い直し、評価軸を決めなくてはなりません。
僕の評価軸は誤解を恐れずいうと、「演劇として、より多くの観客に伝わるクオリティになっているか?」でした。
基本、演劇は観客を選べません。
老若男女が集う開かれた会場である宮城のイズミティ21。
この1200人会場に伝わるクオリティの高い作品を評価するべきと思いました。
これはけして「広い会場に通じる発声術のある芝居」でも、「みんなに伝わる最大公約数的なテーマの作品」という意味でもないです。
今回も「喜劇」、「悲劇」、「現代劇」、「古典」、「ストレートプレイ」、「実験劇」、「ドキュメンタリー劇」など、多くの演劇スタイルがありました。
僕は、その中から「最もクオリティが高く、多くの人に伝わる強度のある演劇を選ぶ。」というスタンスで審査をしました。
もちろん演劇である以上、受け取り手の趣味嗜好やイデオロギーは影響するだろうが、そういう要素は極力排して選んだつもりだし、「高校演劇らしい」ということは評価基準にしたつもりはありません。
(「高校生が演じている」ということが生み出す長短所は認識していたけれど。)
評価の仕方も、脚本、演出、演技、スタッフワーク、印象の5項目を数値化、その数値を参考にしたうえで、最終的に順位付けをしました。
(僕の高校演劇の審査基準は、文章化してあるので、機会があれば公開します。)
大会事務局の方に審査方針として言われた「総合的に演劇創造として優れているもの」を選んだつもりだし、事実、それ以外の審査方針は難しいと個人的には思います。
・「全国大会の優秀作品とは?」
振り返ってみると、僕は12校の中から最優秀や優秀校を選んだのではないように思います。
地区予選や、県大会で敗れたであろう沢山の演劇部の頂点を選ぼうと思いました。
だから、「東京の国立劇場で見てもらうのは、この作品だ」とか、「今の高校生の現実が表現されている」という意図で選ぶことは、みじんも考えませんでした。
(もちろん、作品の持つ「地域性」や「同時代性」が、作品強度として相対的に上位ならば選ぶでしょうが。)
これは「全国の高校演劇部2000校の頂点を決めるコンクール」なのだから。
敗れた2000校に向け、
これから作品を作る後輩たちに向け、
そして未来の演劇創造に向け、
「頂点はここです。」といえることが大事だと思ったのです。
長くなりましたが、最後に一つ。
・「講評」について。
「審査員の講評が冷たい」というような批判があったようですが、僕自身を振り返ると、「審査」に比して、「講評」への意識は低かったかもしれません。
先に述べたように、「審査とは優劣決定の説明責任を果たすこと」と考えていた僕は、「より良くするための改善点」を指摘することを重視して、「今後の励みになる言葉」という意識が少なかったかもしれません。
また、講評の時間は限られています。
「これはもっとこうしたらよくなるのに!」、「ここを変えれば全然違うのに!」と伝えたいことは山のようにあります。
どれも素敵な作品だったため、つい「プロと同じ目線」で評価し、結果として、急ぎ足で伝えたことが、冷淡な態度とうつったかもしれません。
また、なるべく思い入れを入れず、フラットで客観的な審査を意識していた僕は、舞台上のパフォーマンスの客観的事実の批評をしてしまい、作品世界を広げる思索に富んだ講評で生徒さんの励みとなろうという意識は少なかったかもしれません。
さらに、僕の潜在意識も省みると、講評するということは「自分自身の演劇観を明らかにすること」であり、その恐怖を隠すため、硬い態度になった気もしています。
地区や県大会では熱い講評をするほうだと思っていたので、見えないプレッシャーにやられていたのか、まだまだ精進しないと、と反省しています。
・「演劇って?」
僕の主観ですが、審査員はみな演劇を愛する人であり、「講評する力」、「分析する力」、「評価軸」などに違いこそあれ、舞台上に立っている演者と同じように、誰もが精一杯の審査をしたということは保証できると思います。
あの場で誰かを傷つけたいと思っている人は、一人もいなかったということだけは信じてほしい。
演劇表現は「何か今より、少しでも人々がより良い方向へ」という想いで、行われていると思います。
もしこの大会で傷ついたり、残念な思いを持った人にとって、この文章が少しでもその応答になれば幸いと、ここまで綴りました。
長文の拝読、どうもありがとう。
そして、素晴らしい演劇を見せてくれ、演劇を考える機会を与えてくれて、ありがとう。
色々な意見も出ることは、演劇として健全なことでしょう。
そういう意味でも、とても良い大会だったと思います。
お互いに、より良くあるため、もっともっと上を向いて、精進していきたいですね。
ひとえに、素晴らしい演劇創造の糧になることを祈ります。
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